やまおくのからなし

大学院生のたわごと

喉元過ぎればなんとやら

ご無沙汰しております。

 

約一年間放置しておりましたが、元気にしておりました。

 

twitter(@wkn0815)では週1程度でつぶやいておりましたが、

正直twitterはパブリックというか(もちろんネットで公開されている以上ここもパブリックなのですが)、実名性が高いし、「私が何者か」ということも比較的明白にしているので、社会的体裁を考えると、「成功体験」「感謝」を述べる場所に成り下がっており、つぶやいていながらも、なんとなく胡散臭い、しかしながら「こういう感じの良い人」に見えるような部分だけを切り取って投稿するのも、人間関係の構築と維持をする上で、重要だなと…

 

(それで何か得をしたということでもなく、少なくともそれを見て、東京の人々や福岡の学友は「なんか元気なんだな、日常だな、良かったな」と思うので…お互いにSNS眺めているときなんてそんなもんだと思うのですが、いかがでしょうか。あんまりSNSで病んでても『ああやってるやってる』と片付けられることそのものが辛いので…)←社会的に孤独を感じる人が傷をなめ合う場所ではないわけです、昔はそうだったかもしれないけれど、SNSそのものがね

 

 

 

 

 

近況報告です。一年前、あれほどどん底にあったようなスタンス、福岡がしんどい、東京に帰りたいとのべていた私も、今年の春先にきちんと福岡で交際相手ができたり、修論の準備をして、もう自分の無力さに落ち込んだり、なんとかそれでも精神を立て直したり、薬の量が減ったり、研究が進まなくて泣いたり、人の病みに何時間も付き合っていたものの、「それは私がやらなくても大丈夫だな」と割り切って距離を置いたり、嫌な人間と思われるかもしれないが「ちょうどいいブスなんかしなくていいんだな」と、いじってくる人のコミュニティを抜けたり、ちょっと痩せたりしました。時間は有限なので。

 

 でも一年前に傷ついて乱心したり、「私じゃなくてもいいんだ」と思ったことも、つい1年前のことで、人生ずっと安定ということもないですから、簡単に過去の自分を「あの時は馬鹿でえ~」とも言い切りたくないと思います。人生は躁と鬱の繰り返しなので、いつ、向こう側を越えるか、こちら側に戻ってくるか、というだけなので

 

修論頑張って書いてます。修論書きあげて、どうにか自信がつけられれば、と思います。東京時代の恩師からも連絡がきたので、報いなければと思います。

 

元気にしてます。皆ありがとうね。

 

 

都市の空気は自由にする

 大変遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

松の内もあけ、寒中お見舞い申し上げます、の時期になってしまった。

 

 東京にいる母が、調布駅で押されて転倒したので、という大義名分のもと(実際には、クリスマスに東京で会いたい人がいたので)大学院の冬休みが始まった12月22日に即、東京に戻った。

 

 福岡が合わないのか(別に福岡が嫌いなわけではないのだが)、単に東京に大切な友達等や家族を置いてきたこともあったからか、大変リフレッシュできて、本当に気が晴れた。先週末まで、東京にいた。合計3週間近くいた。今週から大学がはじまるので、福岡へ戻った。

 

 福岡で抗うつ剤を飲みながら、勉強していたのが嘘のようだった。もちろん、冬休み中は、指導教員がくださった宿題や独語はかかさず続け、身体の母の面倒をみながら、住み慣れた街で、10年以上付き合いのある親友と過ごしたり(寝ずに20時間ほどノンストップで話したほど、価値観が合う大切な親友だ)、歳のほど近い従姉妹と飲みにでかけたり、大学時代のゼミの友達と思い出話をしたり、大学時代の指導教官とトルコ料理を食べにいったりして(忙しい中、時間を作っていただいて、本当にうれしかった)、自分は視野が狭まっていたんだな、と気付かされて、肩の荷が降りたようだった。

 

  本来とは異なる意味なのをあえて承知の上でいえば、「都市の空気は自由にする」のかもしれないと思った。

 

 指導教官と食事している間、大学院での生活、福岡での生活環境(もちろん、学業や大学院の指導教員のせいではない。本当によくしてもらっていると思う)について語りながら、ボロボロ泣いてしまった。迷惑な顔ひとつせず、聴いて下さった先生に感謝してもしきれない。

 

 あまり自覚はしていなかったのだが、あらゆる人に「福岡にいるとき、しんどそうだったけど大丈夫?環境変えてもいいと思うよ」「気付いてないかもしれないけど、福岡に越してから、だいぶヤバいと思う。戻ってきなよ」と言われたが、やっぱり、今の研究を続けたいし、今の大学院の指導教員も非常に親切にしてくださるし、ここまで進学するのに、私なりに努力してきたし、多くの人に協力してきた部分もあるし、犠牲にしてきたものもあるので、もう少し頑張っていきたいと思う。親にも迷惑をかけるが、やっぱり、自分で選んだ道なので、責任を取る必要があると思う。

 

 正直、福岡に戻るのが怖くて、親友と歩きながら、池袋のサンシャイン通りで「福岡は全然嫌いじゃないし、先生も親切なんだけどさ、ってか福岡嫌いになったら、これから博士(課程)までいくのにさ、ほとんど20代が地獄じゃん、福岡は悪くないんだよ、でも私は福岡に戻んないといけないんだよ。」などと訳の分からない供述を繰り返してしまったりもしたが、おそるおそる福岡に戻り、引きこもって独語を読み、苦悩に対する痛み止めのように、モーニング娘。ばかり聞き(福岡にきてから、痛み止めを打つように、モーニング娘。ばかり聞くので、すっかりハロオタになってしまった。久住小春鈴木香音が好きだ。)週が明けて、大学院の授業にはいつも通り参加できたし、心配していたのが嘘のように、気が晴れている。

 

 東京で自己肯定感を取り戻したと思う。

もうすぐ修士課程1年生も終わるので、自分の居場所は福岡だけじゃない(東京にまだ自室も残っている)と自分をごまかしながら、心と筆を折らずに、修論まで頑張っていければと思った。私の人生なのに、どうでもいいことに振り回されたくないと思った。早く楽になりたい。今に見てろよ。…なんてね。

 

 大森靖子が好きな親友と、大森靖子の『さようなら』の歌詞について話した。

私がとても好きな歌だ。「わからないなら死ねばいい わたしはまだ歩ける」の歌詞が好きだ。はじめて聞いた大学一年生の頃、「死ねばいい」なんて人に吐いたら「かわいそう」だと思ったが、私も私の生活を守りたいので、あまりにも私の心身共にすり減らし、私に過剰介入してくる人は、心のなかから追い出したいと思って、「死ねばいい」という歌詞を聴いたら、ものすごく気が楽になった。

 「死ねばいい」と吐いてから、「わたしはまだ歩ける」と自分にいいきかせて、もう少し歩いてみようと思った。福岡でも生きてるよ。

 

 

 

www.youtube.com

 

 

別に私じゃなくても良かった

 すべきことが片付いたので、久々に書いてみる。

 

 二週間以上間が開いてしまった。

 普段、山奥の大学院に通い、かつtwitterも鍵アカウントでこもりきりで、前回の記事に数百人の閲覧数があったと告知がきて、twitterのDMで感想が送られてきたり、新規のフォローリクエストが来たりで、久々のリアクションに驚いてしまった。自分の言葉がどう解釈されているかわからないが、とにかくなんらかの反応があることは、自己顕示欲が満たされるのか、それなりに嬉しかった。有難う御座いました。

 書いてすぐに、東京の大学の友人にURLをLINEで貼り付けたところ、「俺しか読まないでしょこれ」と返ってきて、「勝手に『俺』と『私』だけの世界をつくって、『俺』で『私』を囲い込むな」と見当違いな若干の憤りを感じつつ(自分でも認知の歪みに気付いているので、悲しくなった)、笑ってながし、実際問題、私も彼の言う通りだと思っていたので、予想外である。

 

 約10日前、研究会のために、学部時代にお世話になった大学に行き、恩師にも会えた。東京の部屋はそのまま残してあるので、夜はそこに帰った。寝坊してはいけないと思うと、ほとんど眠れず、学級崩壊した北九州市の某中学校における、鬱病による休職から復帰した中学教師のドキュメンタリーなどを見ていたら、朝が来てしまっていた。大学院に入学以降、こんなことが多く、すっかり慣れてしまった。

 

 また、前日入りをしたので、前日夜は東京の友人と高田馬場で食事をした。

 注文をしてから、友人に「えらいテキパキするから驚いた」と言われた。大学院に進んでから、先輩方と食事することが多く、慣れのせいだと思った。

 あと、私的にはたくさん食べたのだが「なんか食べなくなったね」「痩せた」と言われた。学部生の頃は、フードファイターと揶揄され、「好きな食べ物は…」と言いかけると「どっちの意味でも肉欲すごいもんね~(もちろんこれは下ネタである)」といじられることがあったので、通常に戻っただけだと思いたい。大学院に進んでから、トータルで5キロやせたが、残念ながら、ちんちくりんである。私の一割が消えたのにな…。「たくさん食べて面白いデブ像」の期待に添えられなかったのだと、悲しくなりながら布団に入った。繊細すぎる。

 

 また、先日、学部時代の先輩が福岡まで遊びにきてくれたので、天神で食事をした。

こうしてみると、大学に入ってからはそれなりに友人に恵まれたのだと気付かされるし、年末年始は、東京と山形で人と会う予定で埋まっているにも関わらず、虚無感がひどい。もちろん、周辺の人々のせいではなく、私のせいである。なんて贅沢なのだ、と思う。大学生の頃出ていた哲学講義で扱ったハイデガーの『存在と時間』で、自己と向き合うことを避けるために、人間はあえて多忙にしがちといった趣旨の一文があったが、そうなのかもしれない。学部時代の自分もそうだったと思う。

 

 大学院に入ってからは、ろくにバイトもせず、親の脛をかじりながら、貯金を崩して生活しているが、読書し、頭が悪いなりに思索する時間がたくさんあるので、自己を向き合う時間があまりにも長く、精神を病むことが多かった。(詳細は書かないが、いわゆるメンヘラとか、マヂ病み。。。という状態ではなく、定期的な通院と増える薬に頼りつつ、人間としての形を保っている。福祉国家に生まれてよかった。)

 

 良い意味でも、悪い意味でも、勢いがなくなったようである。

学部時代から私のことを知る人々から「大人になったね」「落ち着いたね」と言われた。「元気ないけどどうしたの」ではないので、社会性が身に就き、少しは「大人の女性」としてのふるまいが出来ているのだと思いたい。親の脛をかじって、税金で大学院生をやってるのにね。学部生のころは、とにかく自分の話をすることが多かった。今となっては恥ずかしいが、当時、自分を「私はそれなりに賢くて、面白い」と思っていたのである。だから、スピーカーになろうと思っていたのである。しかし、大学院に進学してから、自分の小ささに気付いたので、今度はヘッドフォンになろうと思った。私が話す必要はなくて、「別に私じゃなくても良い」のである。あまり性格も頭も良くない私なので、大学一年生の頃、ふぇのたすというバンドの『スピーカーボーイ』という歌を脳内で流しながら、雄弁な男子の話をニコニコして聞いていたが、それを思い出した。もっとも、今、目の前にしているスピーカーはこの頃よりも質が高い(と思う)のだが。

 

 それと、あらゆることに過敏になってしまった。

 味覚に関し、刺激の強いものを受け入れられなくなった。バイト前に豊洲高田馬場のマックや吉野家でカロリー接種してから塾バイトをし、3コマこなしてから、家系ラーメンを食べることもざらにあったが、今思うと、想像しただけで吐きそうになった。

 聴覚に関してもそうである。東京から福岡に越したという立地的な理由や、突発性難聴にかかったこともあるのだろうが、月1回は行っていたライブに行けなくなった。週1で通っていたカラオケも怖くなった。音量もそうだが、暗くて狭いところに、人がぎっしり詰め込まれ(しかも、私の好きな大森靖子アーバンギャルド神聖かまってちゃんのファンは病んでいるので、密集するとなんとも言えない訝しい雰囲気になってしまうのである。昔はそれが心地よかったのだが、最近は、気がふれそうなのをどうにか我慢しているので、そちらに引っ張られそうで怖くなった)、かつ座れないと思うと、心身ともにすり減って、家まで無事に帰れる気がしない。もちろん、音楽は生活に欠かせないほど好きなので、イヤフォンを介して、CDやDVDで楽しんでいる。

 

 とにかく、気がふれないように、自分を守りながら、余裕をもって生活をすることが多くなった。自分の好きな服を着たり、髪を綺麗にしたり、部屋を自分ごのみに飾り立てたり、大学院でするべきルーティンを余裕もってこなしたり、深く読書できることを大切にするようになった。別に発信する必要はなく、自分の世界を充実できれば良いと思った。

 

 少し、自分のことを話しすぎて、「批判が飛んできそうだな」「大して中身のないことを発信して、人の時間を奪ってしまった」と辛くなってきたので、今日はこのあたりで終わりにしたい。

 ふぇのたすの『スピーカーボーイ』を貼っておく。ポップで辛辣な彼等彼女らが好きだった。

 

www.youtube.com

 

山奥の若いカラナシ

 やっとブログを書くことができた。

 そもそも、このブログは昨年、2017年9月11日に設立したのが、当時、大学院入試を控えており、ありがたいことに、当時の在籍していた大学の指導教官に週3ペースで独語の指導をしていただいていたこともあり、多忙の毎日であったので、なかなか手付かずであった。

  夏休みもほとんど終わりに差し掛かった9月11日、「ああ同時多発テロ事件の日だ」と漠然と思いつつ、大学の法学資料室(とは言っても、当時の私の専攻は歴史学、日独関係史、今は政治学、日独関係史であるので、法律のことはさっぱりである)のPCで、何か今しか書けないことを残したいと思い、ブログを開設したのだった。

資料室のおじさんにバレたら怒られちゃうね。

 

 ブログを開設したものの、実際、当時はブラックとされる某個別指導塾のシフト追加を断われず、新宿区高田馬場在住だったが、山手線の環状線を飛び越え、江東区豊洲まで往復1時間半の通勤をこなし(もちろん高田馬場早大生中心の学生街で大学生が多く、近くに学習院女子高等科や都立戸山高校などもあり、高校生も多いので、教室はあった。だが、塾バイトの面接後、室長のゴリ推しに負けてしまった。豊洲市場の地下汚染水に沈んでしまえとさえ思ったが、『お人よし』なので断れなかった。こうして、2年に渡る長時間通勤が始まったのであった。)、終わったら深夜2時まで、高田馬場サイゼリアで「こんなはずじゃなかった、なんで私は断ることができないんだろう」と自己嫌悪に陥りながら、院試の勉強や卒論を書き、朝10時には大学で勉強していた記憶がある。

 

 そして今、無事、第一志望校である今の大学院に在籍しているのだが、合格した当時は「こんなに多忙だった時期はなかった、自分はよくやった」と思っていたが、今思うと「院生はもっと勉強するよ」という言葉しかでてこない。でも、まあ、約1年前の私からすると「私、めっちゃ頑張った、だから旧帝大の大学院に合格した、私やればできるじゃん すっごーい!」という「成功体験」だったのだろう。えらいえらい。

 

 申しおくれたが、本日より、気が向いたらブログを書こうと思う。

twitterは10年近くやっている(大学に入ってからは@wkn0815というアカウントでやり直した)ものの、やはり、上記したような「だから何」といったことをTLに流すのが耐え切れず、その結果「〇〇さんから××をいただきました!大学院ゼミの皆さんといただきます!有難う御座いました!」といった「私めっちゃ社会性あるよ~~福岡でも元気にやってるよ~~皆ありがとう~」といったツイートばかりするようになってしまったのと、この記事でもみられるように、()で長文を挿入する傾向にあるので、twitterに言葉を投げつけると、140字制限に邪魔されるためである。確かに、140字に言いたいことをまとめるのも特訓だと思う。

 いや、分かっているんだ、でも、私は好きなだけ、心に浮かんでは消えていく心に移りゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくりたいんだ。これは娯楽なんだ。発散なんだ。発散しないと溜まるのは皆さんもあらゆる点でお分かりだろう。許してくれ。

 

 ブログタイトルだが、徳富蘆花の『みみずのたはごと』に多少引っ張られてしまった気もする。ちなみに、「やまおくのからなし」というのは、本名に使われている漢字を漢和辞典(殆どの人が漢文の授業以来使うことなかったあの本)で引いて、無理やりでっちあげたものである。

 正確に表記すれば、「やまおくの『わかい』からなし」なのだが、「若い」を省いた理由は二つある。

 一つ目は、単に語呂と響きが良くなかったためである。

「やまおくのからなし」に『わかい』を挿入すると、長くて語呂が悪いのと、

「からなし」(つまりカリン)のもつ響きの寂しさ、空虚さに「わかい」という新鮮で、かつ「わ」の持つ響きのやさしさと、「あ」の母音の持つ明るさが不一致だと思ったので、あえて省いた。また、「からなし」より「カリン」の方が響きとしてはパキッとして明るく、軽いイメージを与えるかもしれないが、私には可愛すぎるので、あえて「からなし」と表記した。余談だが、私の本名なキラキラネームではないものの、明るくフレッシュなグラドルのような名前なので(高卒の明るさが取り柄のグラドルのような名前と言われたことがある。悲しいが、その通りだと思ったので、反論できず、「はは…」と苦笑いをしてしまった)、ここではそんな思いはしたくないと思った。本名が私に可愛すぎるのが若干のコンプレックス(一方では愛着もある)なので、どんなに関係が深まったとしても、下の名前で自発的に呼ばせることはなかった。高校・中学時代、女子の同級生が親しみを込めて、下の名前で呼ぶこともあったが、正直、「まあ卒業したらもう疎遠になるからいいでしょ」とどうでもよかったので「好きにして」と思っていた。

 

 話がずれた。二つ目は、「若さ」への恐れのためである。

24歳大学院修士課程1年生(大学院入学はストレートだが、大学入学のために一浪している)にもなって、「若い」などとつけるもの恥ずかしかったのである。(だが、修士課程1年のぺーぺーの青二才という点では「若い」とつけても良かったのかもしれないが…。)それと、12歳ごろから「年をとるのが怖かった」ためである。中学生頃から、年齢がコンプレックスだった。「ああJCという看板がなくなった」と絶望して、中学の卒業式を迎えて、泣いた記憶がある。友達と離れ離れになるからではない。中学時代、吹奏楽部に所属し、それなりに友達もいたが、「人間関係を一旦清算したい」と、同じ中学の同級生が一人もいない、バスで片道40分かかる女子高に進学するほど、中学時代の人間関係に固執できなかった。なんとなく処女性を秘めた「JC」でなくなるのがただただ辛かった。また、女子高に進学してからは、「女子校」の「セーラー服」の「女子高生」「JK」という価値の高さがよくわかっていたので、あえてスカートを短くせず、黒髪に縮毛矯正をかけ、絶対にスニーカーははかず、黒い革靴をはいていた。可憐なJKに無駄毛は許されないので、狂ったように脱毛に固執していた。頭と脚の毛の違いで、こうも対応が違うと、毛があまりにも気の毒になるが。何にむけてこのようなことをしていたのかは分からないが(学外の付き合っているのか良くわからない男性とはよく連絡していたが、私の作られた処女性に目を引いていただけなのはよくわかっていたので、大して好きになれず、日本史の男性教師に熱視線を送っていた。人間は裏切るけれど、一生懸命読んだ本や、『歴史学』は私のことを裏切らないが座右の名であった。中二病まっさかりの気持ち悪い女子高生である。)、同時に、「JK」という看板がなくなるのが嫌だった。「JKブランドがあるうちに自殺したい」とも思ったが、受験勉強をしているうちに学歴コンプレックスと、歴史学への固執のおかげで「今死んだら高卒のまま死ぬことになるし(差別的発言)、大学で歴史を勉強できなくなるじゃん」と思い、自殺はやめた。意志の弱すぎる希死念慮であった。ちなみにJKブランドが消え去ってのち、晴れて河合塾池袋校で一年限定の浪人生になったのだが。

 

 自分があまりにも名前、とりわけ「若」の一字に固執しているので、我ながら「気持ちわるい、こんな女と一生関わっていくのは嫌だ」と思ってしまった。数時間後には病院の予約もあるし、夕方には授業があるので、今日のところはここまでにしておく。

 

 朝が来たので、窓を開ける。