やまおくのからなし

大学院生のたわごと

山奥の若いカラナシ

 やっとブログを書くことができた。

 そもそも、このブログは昨年、2017年9月11日に設立したのが、当時、大学院入試を控えており、ありがたいことに、当時の在籍していた大学の指導教官に週3ペースで独語の指導をしていただいていたこともあり、多忙の毎日であったので、なかなか手付かずであった。

  夏休みもほとんど終わりに差し掛かった9月11日、「ああ同時多発テロ事件の日だ」と漠然と思いつつ、大学の法学資料室(とは言っても、当時の私の専攻は歴史学、日独関係史、今は政治学、日独関係史であるので、法律のことはさっぱりである)のPCで、何か今しか書けないことを残したいと思い、ブログを開設したのだった。

資料室のおじさんにバレたら怒られちゃうね。

 

 ブログを開設したものの、実際、当時はブラックとされる某個別指導塾のシフト追加を断われず、新宿区高田馬場在住だったが、山手線の環状線を飛び越え、江東区豊洲まで往復1時間半の通勤をこなし(もちろん高田馬場早大生中心の学生街で大学生が多く、近くに学習院女子高等科や都立戸山高校などもあり、高校生も多いので、教室はあった。だが、塾バイトの面接後、室長のゴリ推しに負けてしまった。豊洲市場の地下汚染水に沈んでしまえとさえ思ったが、『お人よし』なので断れなかった。こうして、2年に渡る長時間通勤が始まったのであった。)、終わったら深夜2時まで、高田馬場サイゼリアで「こんなはずじゃなかった、なんで私は断ることができないんだろう」と自己嫌悪に陥りながら、院試の勉強や卒論を書き、朝10時には大学で勉強していた記憶がある。

 

 そして今、無事、第一志望校である今の大学院に在籍しているのだが、合格した当時は「こんなに多忙だった時期はなかった、自分はよくやった」と思っていたが、今思うと「院生はもっと勉強するよ」という言葉しかでてこない。でも、まあ、約1年前の私からすると「私、めっちゃ頑張った、だから旧帝大の大学院に合格した、私やればできるじゃん すっごーい!」という「成功体験」だったのだろう。えらいえらい。

 

 申しおくれたが、本日より、気が向いたらブログを書こうと思う。

twitterは10年近くやっている(大学に入ってからは@wkn0815というアカウントでやり直した)ものの、やはり、上記したような「だから何」といったことをTLに流すのが耐え切れず、その結果「〇〇さんから××をいただきました!大学院ゼミの皆さんといただきます!有難う御座いました!」といった「私めっちゃ社会性あるよ~~福岡でも元気にやってるよ~~皆ありがとう~」といったツイートばかりするようになってしまったのと、この記事でもみられるように、()で長文を挿入する傾向にあるので、twitterに言葉を投げつけると、140字制限に邪魔されるためである。確かに、140字に言いたいことをまとめるのも特訓だと思う。

 いや、分かっているんだ、でも、私は好きなだけ、心に浮かんでは消えていく心に移りゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくりたいんだ。これは娯楽なんだ。発散なんだ。発散しないと溜まるのは皆さんもあらゆる点でお分かりだろう。許してくれ。

 

 ブログタイトルだが、徳富蘆花の『みみずのたはごと』に多少引っ張られてしまった気もする。ちなみに、「やまおくのからなし」というのは、本名に使われている漢字を漢和辞典(殆どの人が漢文の授業以来使うことなかったあの本)で引いて、無理やりでっちあげたものである。

 正確に表記すれば、「やまおくの『わかい』からなし」なのだが、「若い」を省いた理由は二つある。

 一つ目は、単に語呂と響きが良くなかったためである。

「やまおくのからなし」に『わかい』を挿入すると、長くて語呂が悪いのと、

「からなし」(つまりカリン)のもつ響きの寂しさ、空虚さに「わかい」という新鮮で、かつ「わ」の持つ響きのやさしさと、「あ」の母音の持つ明るさが不一致だと思ったので、あえて省いた。また、「からなし」より「カリン」の方が響きとしてはパキッとして明るく、軽いイメージを与えるかもしれないが、私には可愛すぎるので、あえて「からなし」と表記した。余談だが、私の本名なキラキラネームではないものの、明るくフレッシュなグラドルのような名前なので(高卒の明るさが取り柄のグラドルのような名前と言われたことがある。悲しいが、その通りだと思ったので、反論できず、「はは…」と苦笑いをしてしまった)、ここではそんな思いはしたくないと思った。本名が私に可愛すぎるのが若干のコンプレックス(一方では愛着もある)なので、どんなに関係が深まったとしても、下の名前で自発的に呼ばせることはなかった。高校・中学時代、女子の同級生が親しみを込めて、下の名前で呼ぶこともあったが、正直、「まあ卒業したらもう疎遠になるからいいでしょ」とどうでもよかったので「好きにして」と思っていた。

 

 話がずれた。二つ目は、「若さ」への恐れのためである。

24歳大学院修士課程1年生(大学院入学はストレートだが、大学入学のために一浪している)にもなって、「若い」などとつけるもの恥ずかしかったのである。(だが、修士課程1年のぺーぺーの青二才という点では「若い」とつけても良かったのかもしれないが…。)それと、12歳ごろから「年をとるのが怖かった」ためである。中学生頃から、年齢がコンプレックスだった。「ああJCという看板がなくなった」と絶望して、中学の卒業式を迎えて、泣いた記憶がある。友達と離れ離れになるからではない。中学時代、吹奏楽部に所属し、それなりに友達もいたが、「人間関係を一旦清算したい」と、同じ中学の同級生が一人もいない、バスで片道40分かかる女子高に進学するほど、中学時代の人間関係に固執できなかった。なんとなく処女性を秘めた「JC」でなくなるのがただただ辛かった。また、女子高に進学してからは、「女子校」の「セーラー服」の「女子高生」「JK」という価値の高さがよくわかっていたので、あえてスカートを短くせず、黒髪に縮毛矯正をかけ、絶対にスニーカーははかず、黒い革靴をはいていた。可憐なJKに無駄毛は許されないので、狂ったように脱毛に固執していた。頭と脚の毛の違いで、こうも対応が違うと、毛があまりにも気の毒になるが。何にむけてこのようなことをしていたのかは分からないが(学外の付き合っているのか良くわからない男性とはよく連絡していたが、私の作られた処女性に目を引いていただけなのはよくわかっていたので、大して好きになれず、日本史の男性教師に熱視線を送っていた。人間は裏切るけれど、一生懸命読んだ本や、『歴史学』は私のことを裏切らないが座右の名であった。中二病まっさかりの気持ち悪い女子高生である。)、同時に、「JK」という看板がなくなるのが嫌だった。「JKブランドがあるうちに自殺したい」とも思ったが、受験勉強をしているうちに学歴コンプレックスと、歴史学への固執のおかげで「今死んだら高卒のまま死ぬことになるし(差別的発言)、大学で歴史を勉強できなくなるじゃん」と思い、自殺はやめた。意志の弱すぎる希死念慮であった。ちなみにJKブランドが消え去ってのち、晴れて河合塾池袋校で一年限定の浪人生になったのだが。

 

 自分があまりにも名前、とりわけ「若」の一字に固執しているので、我ながら「気持ちわるい、こんな女と一生関わっていくのは嫌だ」と思ってしまった。数時間後には病院の予約もあるし、夕方には授業があるので、今日のところはここまでにしておく。

 

 朝が来たので、窓を開ける。